フランスと日本をつなげるような仕事をしたい
父親であるジョエル・ロブションは、家族やプライベートについて公の場では語らない人。1995年に発刊された『ロブション自伝』(中央公論新社)の中でも、自身の家族については触れていない。一方、料理に対する情熱や、日本ひいきとも言える日本への愛は隠そうとしなかったという。
「父は多忙を極める人だったので、共に過ごす時間は限られていましたが、仕事のことはあまり話したがらない人でした。ただ、料理人の片鱗というか、一緒に外食へ行くと、突然顔が変わって料理モードになる時がありましたね(笑)」
6歳から18歳までをフランスで過ごしたルイ氏。そんな家庭の食卓には、フランスの家庭料理に加え、母が作る和食も並んだという。「私も和食が大好き」。そう笑うルイ氏が、日本に関心を抱いたのは必然だったのかもしれない。
「フランスと日本、どちらの大学に行くか迷ったのですが、東京で暮らしてみたかった。私はフランスと日本をつなげるような仕事をしたいと考えていました。そのためにも、より日本を知りたかった。ただ……父からは、“料理人にはなるな”と言われていました」
ジョエル・ロブションは、フレンチの世界で頭角を現すと、1981年にオーナーシェフとしてパリに『ジャマン』をオープンする。 開業1年でミシュランの1ツ星を獲得すると、翌年には2ツ星。さらに翌年、ついに3ツ星を与えられる。3年で3ツ星までたどり着くのは、前代未聞の出来事だった。
だが、ミシュランの星をどれだけ獲得しても、ジョエル氏は決して傲慢になることはなかったという。「完璧主義を求める厳しい料理人だったとお聞きします」とルイ氏に水を向けると、「料理には厳しい人でした」とルイ氏もうなづく。常に評価される仕事――。料理の世界の厳しさを知っているからこそ、息子には「同じ道を歩んで欲しくなかった」のかもしれない。
「大学在学中には、ワインスクールへと通い、ワインの勉強をしました。フランスには、まだ世に知られていない素晴らしいワインがたくさんあったので、日本に広げられたらと思っていましたね。就職活動もして、商社とか一般企業を2~3社受けたのですが、どこもしっくりこなくて(苦笑)。だったら、自分がやりがいを感じるワインの輸出入事業を、独自に展開した方が面白いと思ったんですね」