強いコンプレックスを感じていた小学生時代
現役時代の飛鳥さんのたくましい姿から想像ができないが、当時は太った外見にコンプレックスを抱いていた。
「水着姿になるのがイヤで、水泳の授業もサボっていました。小学生ながらに“早く死にたい……”とまで思い詰めていましたね。でも中学一年生のときに、ジャッキーさんの試合を見て“絶対に女子プロレスラーになる! ”って決意して。生まれてから初めて“なりたい”って思った職業が、プロレスラーだったんです」
──具体的には、体重何キロくらいだったのですか?
「中学一年生のときには、身長が163cmで体重が80キロでした。運動をたくさん頑張って、1か月で20キロ落として60キロにしました。全日本女子プロレスは、中学校卒業見込みでオーディションを受けられたんです。
でもうちは母子家庭だったので、母親から“高校だけは受けてくれ”と言われて。近所の県立高校に進学して、高校一年生の終わりに、全女のオーディションを受けたら受かったので、中退しました」
全女といえば、80年代の全盛期は入団志望者が3000人を超える狭き門として有名だった。ライオネス飛鳥さんが受けた年も、同様だった。
「ビューティーペアの人気があったので、私が受けた年(1980年入団)も志望者が100人以上いました。かなりの人数が書類選考で落とされていて、そこから練習生として4人が残った形です」
──かなりの難関ですが、合格すると思っていましたか?
「絶対受かると思っていました! 絶対に受かるって心に決めてオーディションを受けたので、松永会長からいっさい目を離さなかった。ずっと会長のことを見つめて、質疑応答もしていました」
正々堂々と、「受かると思っていた」と語るライオネス飛鳥さん。しかし、入団後は思いもよらない挫折が待っていた。
(つづく)
ライオネス飛鳥
1963年7月28日生まれ、埼玉県出身。日本の元女子プロレスラー。1980年に全日本女子プロレス入団。同年5月にデビュー後は、リングネームをライオネス飛鳥に改め、長与千種とのタッグチーム『クラッシュギャルズ』で大ブレイクを果たす。全盛期には全日本ジュニア王座、全日本シングル王座を獲得。タレント活動としてはテレビドラマへの出演のほか、「炎の聖書」で歌手デビュー。人気絶頂のなか、1989年夏に現役を引退。引退後は、女子プロレスの解説やカーレースにも出場。1994年にはプロレスラーとして現役復帰。再び、人気を博した。しかし、度重なる怪我や病気により、2005年にふたたび現役を引退した。現在は、銀座に会員制スナック「gangs」を経営している。