時代を先駆けた「紫の髪」と、神様がくれた人生の設計図

 美輪さんの代名詞といえば、晩年の鮮やかな黄色の髪。しかし、その原点は戦後間もない頃、まだ軍国主義の重苦しい風潮が残る銀座の街を「紫色の髪」で闊歩した若き日にありました。

「当時は男は丸刈り、女はモンペ姿しか許されないような時世の残り香がありましたから、髪を紫に染め、着るものも紫色に統一して歩く私は『国賊』などとののしられ、石を投げつけられるような時代でした」

 それでも美輪さんが自分を貫いたのは、日本の伝統的な「小姓文化」(織田信長が森蘭丸を寵愛したような、美少年を愛でる文化)を現代に再現し、華やかさを取り戻したいという芸術的信念があったからでした。

 その反骨精神と唯一無二の美貌が、伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」を再び満員にし、日本の文化史を揺るがす天才たちを引き寄せることになります。

「銀巴里では、江戸川乱歩さん、川端康成さん、三島由紀夫さん、遠藤周作さん、寺山修司さん、五木寛之さんら多くの作家と知り合い、大切なことをたくさん教えていただきました。なぜこれほどの方々と知遇を得たのか今となっては本当に不思議ですが、きっと芸術好きな少年だった私に、神様が人生の設計図をこしらえていてくださったのだと思っています」

 この“設計図”に導かれるように、美輪さんは寺山修司の『毛皮のマリー』や、三島由紀夫脚本の『黒蜥蜴』に主演し、日本の演劇界・芸能界のトップへと登り詰めていきました。世間の偏見を撥ね退け、自らの美学を信じ抜いた美輪さんの生き様は、多様性が叫ばれる現代において、まさに先駆者そのものでした。

もう一度会いたい人、三島由紀夫への「ごきげんよう」

 年齢を重ねるにつれ、江原啓之さんから誕生日にお花が届くような温かい交流に感謝しつつも、「もう二度と会えない人」が増えていく寂しさも抱えていた美輪さん。

「できることなら、もう一度会いたい人は?」という私たちの問いに、美輪さんは迷わずこう答えてくれました。

「それはやっぱり、三島(由紀夫)さんですね」

 16歳のとき、銀座の喫茶店でアルバイトをしていた美輪さんの才能を見出し、公私ともに深い信頼を寄せていた三島由紀夫氏。1970年、45歳という若さでこの世を去った稀代の文豪との永遠の別れから、半世紀以上の時が流れていました。

「もし、もう一度三島さんに会えたら、何と言うかですって? そうですね……『しばらく』、そして『ごきげんよう』かな。そうしたら三島さんはいつものように『おぅ』って答えますね、きっと」

 2014年のNHK連続テレビ小説『花子とアン』のナレーションでも日本中を魅了し、流行語にもなった美輪さんの「ごきげんよう」という気品あふれる挨拶。そこには、深い愛と再会への祈りが込められていました。