湊かなえの存在が筆を走らせた
原田さんはすぐに執筆に取りかかった。なにせ、同年3月末締め切りのすばる文学賞への応募を見据えていたのだから。書きたいものが書ける喜びか、流れるように筆を走らせていた原田さんだったが、ラストがうまく書けずに苦しんだ。「次の機会にしようかな」と諦めかけた矢先、思いもよらぬ刺激を受けることとなる。
「3月半ば、私も受賞したNHK創作ラジオドラマ大賞の、第35回の授賞式に参加しました。そのときの大賞が小説家の湊かなえさんの『答えは、昼間の月』(双葉社『山猫珈琲 下巻』に収録)。その作品がすっごく良くて。
そのときに、その場にいた誰かが言ったんです。“ここ数年でいちばん良かった”って。前年に大賞を受賞した私がいることに気づかなかったのかわかりませんが、これを聞いたとき、自分自身に対して“ヤバい”と思ったんです」
その言葉を聞いた原田さんはすぐに会場を後にして、家に着くや机に向かった。諦めかけていた作品をラストまで書くためだ。こうして3か月弱で書き上げた『はじまらないティータイム』(集英社)は、第31回すばる文学賞を受賞することとなったのだ。「最初に書いたものですぐに賞を取るなんて思わなくて、ラッキーでした」と振り返る原田さん。
いまもコンスタントに作品を生み出し続け、そのたびに読者を満足させているのだから、決して単なる「ラッキー」ではないことは言うまでもないが、原田さんは飄々(ひょうひょう)と「いえいえ、ラッキーでしたよ」と話すのだった。
原田ひ香(はらだ・ひか)
1970年生まれ、神奈川県出身。’05年、『リトルプリンセス2号』で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。’07年、『はじまらないティータイム』(集英社)で第31回すばる文学賞を受賞。’18年に上梓した『三千円の使いかた』(中央公論新社)がロングヒットを記録し、’22年時点で累計発行部数90万部を超え、’23年に第4回宮崎本大賞を受賞した。最新作は、定食屋を舞台にした心に染みる人間物語『定食屋「雑」』(双葉社)。
●新刊情報
『定食屋「雑」』
真面目でしっかり者の沙也加は、丁寧な暮らしで生活を彩り、健康的な手料理で夫を支えていたある日、突然夫から離婚を切り出される。理由を隠す夫の浮気を疑い、頻繁に夫が立ち寄る定食屋「雑」を偵察することに。大雑把で濃い味付けの料理を出すその店には、愛想のない接客で一人店を切り盛りする老女〝ぞうさん〟がいた。沙也加はひょんなことから、この定食屋「雑」でアルバイトをすることになり——。個性も年齢も立場も違う女たちが、それぞれの明日を切り開く勇気に胸を打たれる。ベストセラー作家が贈る心温まる定食屋物語。