隊員が歩けば石を投げられ、宿営地には迫撃砲やロケット弾も
――まったく文化が異なる国での活動は、ご苦労も多かったのではないでしょうか。
宿営地の設営ひとつにしても、大勢いる地権者を探し集め、代表者を選んでもらっての交渉からスタートでしたし、癖の強い部族長たちの顔も立てなければなりませんでした。
現地のイメージでは「自衛隊イコール日本」ですから、「日本が来れば1日2万人の雇用が生まれ、ディズニーランドができる」なんて噂まで蔓延していたんです。ところが、まっさらの土漠に隊員が寝泊まりする宿営地建設を優先せざるを得ないため、2ヶ月ほど経っても具体的な復興プロジェクトが動き始めていないように見えると、期待が不満に変わってしまいました。隊員が街を歩けば石が投げられ、宿営地には迫撃砲やロケット弾が撃ち込まれる事態になりましたね。
――そこからどうやって信頼関係を築き上げていったのですか。
先遣隊25名の命を守るためには、現地の方の信頼を繋ぎ留めるしかなく、あらゆる知恵を絞りました。当時イラクにいた他国軍がフォークを使う中、我々はあえて現地の人と同じように右手で食事をしたりしました。街に出る時は、車の上から見張る隊員たちが笑顔で住民に手を振る「スーパーウグイス嬢作戦」を徹底しました。当然、周囲を警戒しながらなので、右手は引き金に指をかけています。それが見えないように、左手だけで手を振る練習を重ねました。
また、当時日本から持参した復興用の材料費予算はわずか800万円で、これでは何もできません。そこで私、一度お忍びで帰国して当時の福田康夫官房長官に直談判し、2億円の予算をつけてもらったんです。その結果、イスラムの犠牲祭(イード)の際には羊を配るプロジェクトを行うこともできました。とはいえ予算には限りがあります。自衛隊が直接道路や学校を直す「自己実施型」ではなく、現地の人間に技術を教え、雇用を生み出す「施工管理型」にしました。魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える復興支援です。
――帰国が決まった時には、現地の方々が別れを惜しんだそうですね。
土地交渉で世話になった部族長の自宅に呼ばれ、「帰らないでくれ、サマーワの再建を一緒にやってくれ」と言われました。「残ってくれたら家も土地も、お嫁さんもやる」と(笑)。
「日本で結婚しています」と伝えたら、「まったく問題ない。イスラム教に改宗したら妻は4人までオッケーだ。日本に1人、サマーワに3人どうだ」と。嘘みたいですが、本当の話です。そこまでの信頼関係を構築できて、全員が無事に帰国できたのも、すべて隊員たちの奮闘のおかげです。
(つづく)