実質的なデビュー作となったドラマ『街角』(1993年)から30年以上。大河ドラマ『風林火山』の山本勘助や『真田丸』の徳川家康、『JIN‐仁‐』の坂本龍馬、そして大ヒット作『きのう何食べた?』の矢吹賢二……フィクションの世界を自由自在に泳ぎまわる俳優・内野聖陽。
2021年にはその類稀なる演技力と芸術的功績が評価され、紫綬褒章を受賞。名実ともに日本を代表するトップ俳優として第一線を走り続けている。
連載第2回でスポットを当てるのは、映画『負けへんで』の圧巻のハイライトである取調室の心理戦と、豪華共演陣との濃密な現場の舞台裏だ。美しき女性検事の「甘い罠」にいかにして惑わされ、そして本木克英監督との絶妙な信頼関係の中でいかにして名シーンが生まれたのか。鬼気迫る撮影の真実に迫る。【第2回/全4回】
松本若菜が仕掛ける“心のオアシス”という名の甘い罠
映画『負けへんで』の中で、観客の目をくぎづけにするのが、内野聖陽演じる主人公・藤堂と、松本若菜演じる関西地検特捜部の検事・鈴鳴通子との取調室でのジリジリとした対峙だ。
検察が作り上げた筋書き通りに供述を誘導しようとする鈴鳴。彼女は高圧的な取り調べではなく、フレンドリーで優しい顔を見せながら、絶望の淵にいる藤堂の心へ滑り込んでくる。
「検察という組織も強固な体育会系で、上の主任検事が描いたシナリオ通りに落とすため、部下たちが手分けしてあの手この手で揺さぶってくるんです。
そんな中で、松本さん演じる鈴鳴検事は、まさに“心のオアシス”のような存在として藤堂の前に現れる。過酷な拘留生活で心が折れかけている藤堂にとって、自分に優しくほほ笑みかけ、親身に話を聞いてくれる美しい女性検事は、唯一心が休まる場所になってしまうんです。でも、それこそが巧妙に計算された恐ろしい『甘い罠』なんですよね」
内野は、モデルとなった山岸氏から聞いた「取り調べの最中、彼女と話しているときが一番心が安らいだ」という実話に強いショックを受けたという。
「本当に人間って、極限まで追い込まれると自分を騙そうとしている相手に救いを求めてしまうんだなと。
松本さんのお芝居が見事だったのは、ただ冷酷なヒールを演じるのではなく、柔らかい大阪弁と包み込むような雰囲気で、本当に恋に落ちてしまいそうな甘い空気を醸し出していたこと。だからこそ僕も、彼女の優しさに翻弄され、自ら罠にはまっていく藤堂の切なさを、我が事のように体感することができました。
松本さん自身も大阪弁には相当苦労されていて、カットがかかるたびに『今のアウトですか?』と指導の方に確認しながら、ものすごい集中力で挑まれていましたね」
取調室のシーンは、数日間にわたって順撮りで撮影されたため、藤堂が少しずつ毒に侵されるように心を許し、知らず知らずのうちに追い詰められていく心理的グラデーションが見事に映像に刻み込まれている。
「松本さんとのセッションは本当にスリリングで楽しかった。彼女の美しい笑顔の奥に見える検察官としての冷徹な眼光。あのギャップがあったからこそ、藤堂の孤独と愚かさがより一層際立ちました」